自分のお葬式を開くなら生前がいいと思っている

死を意識することが増えた

30代も後半になってくると、身の回りや知っている範囲でお悔やみのお知らせを聞くことも多くなってきました。年上の方はもちろんのこと、同年代や年下の方までも、いろいろな理由でこの世を旅立っていきます。病と戦った末であったり、突然のことであったり、そのタイミングも様々です。

私もあと半年で40代、自分の死を意識する時間は徐々に長くなっています。今人生の折り返し点にいるような気持ちではありますが、人生のゴールテープはどこにあるのかは決して見えることはありませんし、40で折返し点だなんてやはりあてにならない一里塚です。

「本当のお別れ」ってほとんど言えない

誰かの死に際していつも思うのは「ちゃんとお別れを言いたい」ということでした。もちろんお葬式でも、ひとりででも、静かに故人を偲ぶ時間はありますけれど、私は人間が死後、この世で起こっていることを感知できるという世界観に生きていないので、やはり私はお葬式というのは残された人の心の整理のためにあるものだと思っていて、私の気持ちや声はきっと故人には通じていないのだと思えてまた悲しくなるのです。

どなたかに会って「おそらく、いや多分、ここでお会いできるのが最後なのかもしれない」と思うことは多くの人にとっても経験があることなのではないかと思います。ですが、そう思ったとしても急にその人に「今までありがとうございました」なんて言えない。絶対に言えない。それはまだ生きている人に「あなたはもうすぐ死ぬ」と判断し、そう伝えたことに他ならないからです。

だから本当に、死に際した人に言いたいことは、その人の生前に伝えることはほとんどできないのです。死後になってから、その人の生前の仕草や言葉に対して「あのときあの人は実はお別れを言っていたのかもしれない」と最後のコミュニケーションがあったことを想像することしかできない。

それは自分が死に際したときもそうでしょう。眼前の人はもう深沢に会えないだろうな、と心で思っていても私にそれを言うことはできない。「ありがとう」でも「バカ」でもなんでもいいので、せっかくの機会に言いたいことを言ってもらえない。それが私にはとても悲しいことのように思えます。

生前葬とその問題

だから私は、もしも自分が死ぬことが目前に迫っていると判断できたときは、自分でお葬式を開きたい。入院に先立っての壮行会だとか、そういう代替の形式でなくて、まともに自分が死ぬ、おそらくもう会えないという前提で、いろんな方とお話がしたいのです。

もちろんそこには問題があります。ひとつは「自分が死ぬと思うと身体が弱る、最後まで諦めないほうがいい」という意見にどう応えるかという話。もちろん病気などに対して自分のメンタルはとても大切なのですけど、「死を覚悟して心を整理すること」と「生を諦めること」って必ずしもイコールではないように思えるのです。基本的にはあとは天に任せる、生き残ったらラッキーくらいの気持ちでいたいです。

あとは「もし葬式してまで生き残ったらかなり恥ずかしいけどどうすんの」という話。これは前の話と同じような話になるんですけど「まあ生き残ったらそれはそれでめでたい、後はボーナスステージだと思って生きるからよろしく」という話です。極端な話、結婚式なんかもそうですけど、葬式なんか何回やってもいいような気がするんですよね、呼ばれる側は迷惑だろうけど(笑)。

一番大きいのは最後まで私に戦ってほしい、生きてほしいと家族が願ってくれているのにそんなことをやるのか、というところですかね。これは流石に僕の一存ではなんともいえない。そんなのは耐えられない、やめてほしいと奥さんや子どもに言われたらさすがにそれはできないですね。ええ。

生前葬って有名人や交友が広い人がやるものじゃないの?

そういう例が多いみたいですね。まあなんというか酔狂で我儘な話だとは思います。あとは書いてて思ったんですけど、自分の現世への執着が強く感じられすぎてかっこいい話じゃないですね。はっきり言って。

自分がそんなことを思えるのは、今バリバリ働いていて交友関係やら家族やら、人のつながりがたくさんある時期だからなのかもしれません。「お前が本当に死ぬ頃になって、お前の酔狂に付き合ってくれるような人間が周りにいるのかよ」と問われれば、それは分からないとしか言いようがないですが、いつくるか分からない将来、そうあれるように努力したいと思います。

また年を重ねるとそういう希望や人生観も変わっていくのかとは思いますが、現在私は死ぬなら生前葬がいいと、そう思っています。

(所要時間:1時間10分)

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