「中年の危機」を前にして思うこと

ミッドライフ・クライシス(中年の危機)の真ん中で – いつか電池がきれるまで

こちらの記事をはじめ、多くの同年代〜少し上の方が「ミッドライフ・クライシス(中年の危機)」という単語(はじめて知ったのですが、わりと古くから提唱されているようです)に反応する記事を書いてらして、自分も思うところがあったので、ふと次男のおねしょを片付けた朝方に筆を執ってみました。

私はいま39歳になったばかりで、妻も子どもも幸いにしてあります。フリーのウェブデザイナーとして独立して10年弱、仕事にも恵まれておりとりあえず日々ごはんを食べたりお酒を飲んだりしながら子どもに不自由をさせないくらいには稼げているつもりです。

そんな中で、妻子が寝静まり、ひとりまんじりともせず起きている夜中、ふと気づくとよくわからないモヤモヤとした感情・渇望に似た焦りのようなものを心のうちに抱え込んだままにぐるぐると思考をしていることがあります。

具体的には将来のお金に対する不安だったり、自分の健康のことだったり、決して遠くないであろう両親や家族の状況に関わる変化のことだったり、他の人のままならない人生のことだったり、もちろん今後の仕事のキャリアのことだったり…いろいろな物事がトリガーになって、気づけばふんわりしたわたあめのようなもので首をしめられて息がしにくい気持ちになっていた…という夜が決してまばらでない頻度で訪れます。

あるときにお酒は楽しくない、と感じたことが最初だったと思います。正確にはその時は楽しいのですが、結局その後のゆるやかな(たまに顕著な)苦しみを繰り返す中で「ああ、これはトレードオフ、あるいは若干の利子がついたマイナスの行為なんだな」ということが理屈でなく身体と心に刻まれていく。

私は20代、アマチュアの役者として活動していたころから「チームでがっつり仕事をして、その苦労と成果を皆で分かち合いながらお酒を飲む」ことが人生の目的である、という仮説を立てて、この30代の終わりごろまで生きてきました。けれどその仮説は修正する必要がある、ということをこの数年で知りました。心ゆくまでアルコールに脳をひたして、その後思いっきり寝て、また次の数ヶ月をがんばる…といったようなことは、ある程度分別のついた大人になると無理があるのです。日々の家庭の運営・並行して走る様々なタイプの仕事・そして嘘が効かない自分の身体・何度も繰り返してきた失敗の経験…。自分の内外から規則正しさや安定したパフォーマンスを求められる中で、そうした破滅的に飲んで蘇ることを繰り返す人生というのは幻想(あるいは極めて危険な欲求)であったことを思い知るに至りました。そしてもちろん周りの人たちは何年も早くそのことに気づいている人がほとんどで、今はそうした飲み方をする友人も身近にはほとんどいません。

仕事については独立してから築き上げてきた環境や人間関係のおかげで、様々な課題意識を保ったまま毎日の仕事に当たれているとは思います。決していい加減な仕事はしていないし日々小さな挑戦もこなしている、仕事の結果としてそれなりのポジションにある、という自覚もあります。ただ、4〜5年前の自分、30代前半〜半ばの自分に比べると、どうも見劣りを感じてしまうのです。

私はなんだかんだ自己顕示欲の強い傾向の人間で、それはおそらく今も変わってはいないと思います。どの仕事でもそうでしょうが、仕事で誰にも注目されるような人になりたいならば、人よりも努力を積み重ねなければなりません。努力を努力と思わぬくらいに好きになり、そこに邁進できる環境を整えることも重要でしょう。

なんらかのポジションを獲得しようと必死だった自分・赤字や徹夜も覚悟で新しいことを仕事に盛り込んでいた自分・方向性はデタラメでもとにかくアウトプットをしていた自分・いろんな方向にアンテナを張り日々勉強することを楽しんでいた自分・外に出て貪欲に人に会いつながりを広げていた自分…そんな近過去の自分を衝き動かしていた何かが明らかに後退し、より燃費のよいはたらき方を無意識に模索しているように思えることがあります。そしてそんな自分を肯定できない自分が頭をもたげて「そんなんじゃダメだ」と囁くのです。

SNSをのぞいてみれば、目標にしているような人々が今日も新たな学びをアウトプットしています。もちろんSNSというのは「その人のよいところだけを切り取ったハイライト」であり、どんな人でも難しいこと・繊細な爆弾を抱えながら走っていることが前提です。でもだからこそ、SNSには「そうやって走りつづけることに疲れたよ、今はゆっくり流したい、ダラダラしたい」とはなかなか言えない空気が漂っている。私にとってTwitterは好きに話す場ですが、まさに必死だった頃の自分の主戦場だったこともあり、なんだかそういうタイプの弱音は吐きにくかったんだなと思います。

閑話休題。40代〜50代の誰から見ても素晴らしいと言われるような善良で有能な人物が「なぜこんなことを」と言われるようなことを起こして回復不可能な傷を負うということはそう珍しくありません。最近はそうしたことがなんだか分かるような気がしてきました。無気力や悩み・悔恨のような形で顕れやすい「中年の危機」の多くの正体は実は渇望なのだと思います。「私の人生ってこんなものなのか」という絶望は「私はこんなもんじゃない、もっとなりたい自分になれる」という渇望の裏返しです。それは多分、外面的に成功しているかどうかは関係なく、極めてパーソナルな領域の中で起こるものです。

若い頃に「ああなりたい」と思っていたときのような燃え盛る気持ちでなく、現実の制約の中で抑制された、チロチロと燃えるような、しかし決して消えない渇望。この小さな炎に長くあぶられているうちに、人の心は弱っていくのかもしれません。

昨年から私は地域活動やPTA、そして今だから再開できそうな趣味に力をかけはじめています。「そんな時間はない」とさわっていなかったゲームにも、Nintentdo Switchが家に来たのをきっかけに、ちょこちょこさわるようになりました。

Twitterではこのようなことを数日前につぶやいてましたが、この記事を書いてみて幾分スッキリした気持ちで新しいことに挑戦できそうな気持ちになりました。この10年間に仕事で成し遂げてきたことがあった上で、また趣味に力をかけてみること・まったく新しい分野で人とのつながりをつくっていくことは、これまでの10年・そして中年期にさしかかるこれからの10年の中で決して悪いことではないように思えるのです。30代のうちに成し遂げられなかったことは、きっと後から手をつけても遅くはない。むしろ今新しくはじめることがまた、仕事・人生の新しい断面を提供してくれるのだと思います。

きっと「中年の危機」というやつは根本的に解決することはありません。でもどうにかこれまでのやり方を修正したり新しいことに取り組みながら、やりすごすしかないのだろうと思います。

やっていきましょう。
(所要時間:2時間10分)

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